深林

感じた事/考えた事/書評/調べ物

昼寝日和

電車に乗る。晴れた昼下がりに乗る電車は最高だ。まず人が少ない。冬は暖かく夏は涼しい。窓越しの少し暗くなった風景は、陽の光と混じると実に害のない柔らかいものに姿を変えるし、街に立ち並ぶ広告や居酒屋の看板、古ぼけた理容店の色あせた三色のうずまきーサインポールっていうらしい。を眺めてると、知らない惑星を訪れてる気分になれる。

 ここまで書いたところで一度電車を乗り換える。薄暗い階段を登り、改札を通り抜ける。左に曲がり少し歩き、また改札を通り抜ける。興味を引いたものも、書きたい事も特に無かった。階段を降りると丁度電車が来ていたので乗り込んで青い座席に座った。出発を待つ。電車が動き始める。窓から日が差すと宙に舞った埃がきらりと光った。 

僕は今友人に会いにいく、電車に乗って。がたがたと音を立てて、目の前の景色を変えながら、電車は単調に進み続ける。今日は友人の家の近くで祭りがあるらしく、一緒にそれを見る予定だ。その光景を想像しようと思ったけど、そこの街並みも、何の祭りかもわからないから上手く出来なかった。ビールを飲みながらくだらない会話をして、ふらふらと歩き続ける事だけは確かだと思う。辛気臭く小難しく、この国の未来やら将来の不安やらを語るよりかはよっぽどマシだし、無意味な遊びを僕は愛しているから、それなりに楽しみな気持ちで電車に揺られる。ウンザリするような事を人に話しても、大体は二人とも悲しい気持ちになって終わるだけだ。そういう雰囲気は人の生命を削る力を持っている。笑い飛ばして仕舞えばいいのに、周りに期待して自分を預けた分だけ、失望と悲しみは大きくなる。分かり合えない事を絶望と捉える事がそもそもの間違いで、分かり合えないポイントこそが関係を作るし生きる事の希望を作ると思う。どうせ100年後には皆骨だ。随分陳腐な事を言っている。 

電車に揺られてたら眠くなって来た。どうでもいい文書を垂れ流していると尚更だ。けれどそろそろ目的地だし、眠るわけにはいかない。けれどこの電車は座席がふかふかしているし、今日は絶好の昼寝日和だ。眠い。眠い。何度か、誘惑に負けて眠った事がある。大体が朝まで飲んだ帰りの始発電車だった。起きたら昼で、自宅とは真逆の場所にいる。乗り換えて地元の駅を目指すが、気付いたら眠っていてまた真逆の場所にいる。最終的には諦めて何度も何度も往復を繰り返し、家に着く頃にはカラスが鳴いてる。疲れが取れずに、家についてもまた眠る事になるため丸一日眠りこける訳だ。僕の発見した究極に無意味な休日の過ごし方だ。 

眠気を覚ます為にマイケルジャクソンを聴く事にする。恐らくこの曲を聴き終わる頃には目的地に着くはずだ。ゼログラビティを華麗に決めるマイケルを想像しながら、僕は目を閉じる。

鍋の話。

僕は今25歳だ。まだ25歳なのか、もう25歳なのか。人によって変わるだろうけど、僕はまず、自分が歳を重ねている実感すら持てていない。大体、僕の脳みそは時系列に沿って記憶を整理する機能を持ち合わせていない様だし、過去の記憶も妄想もごった煮になっている。この鍋の中では、死んだ母親の上でミシェルフーコーが小難しく講義をしているし、数年前に別れた彼女が喘ぐ横でビートルズがオブラディオブラダを歌う。そこでは生と死も猥雑さと聖なる物も、全て一緒くたになっている。 

鍋は底抜けに大きくて、果てしなく深い。僕はいつもその中で小さなアウトリガーカヌーに乗って、プカプカと浮かんでいる。鍋と言ったが、底抜けに大きいため僕はまだ縁を見た事が無い。アクを取るためのオタマや、記憶の火の通り具合を確かめるための菜箸も見た事が無いし、そもそもグツグツと煮え立っていない。鍋じゃ無いのかも知れない。それはもしかしたら、何かしらの液体でできた無重力に浮かぶ球体で、僕はその上をぐるぐると回っているだけなのかも知れない。 

悲しい事があると、僕はカヌーの上から釣りをする。釣具には興味が無いから、なんと無くぼんやりとした感じの長い竿に、ただひたすらに細い糸が結んである。糸の先には釣り針がついているだけで、重りもなけりゃ浮きもない。魚はいないから餌もない。釣り糸を垂らすと、大抵の場合すぐさま反応がある。釣り竿は大きくしなり、腕にずっしりとした重みと、慌てて逃げようともがく記憶の抵抗を感じる。釣り上がるものは様々で、ゴム長靴だったりワカメだったり、マネキンの下半分や、嫌いな上司だったり。稀にそんなガラクタが永遠と繋がって絡み合った状態で釣り上がる時もあり、そんな時はうんざりとした気分でそれを引き上げ続けなければならない。引き上げ終わると、僕はそれを手にとってまじまじと眺める。上から見たり中を覗き込んだり、バラバラにしてみたり磨いてみたり。奇声を発してるヤツとか、ブツブツと陰気に世界を呪うヤツもたまにいるが、そういうヤツは見つけ次第ハンマーで粉々にする事にしている。そうやってひとしきり眺めて満足すると、記憶はその役目を終えて鍋の中へと還っていく。手の中でぐにゃぐにゃと形を変え始め、次第にひとつながりの文字列になる。そっと水面に浮かべるとしばらくは浮かんでいるが、15秒ほど経つと溶けたバターみたいになって、ゆるやかに広がりながら最後は跡形もなく消える。

 楽しい事があった時は、僕は釣りをしない。その記憶を空に映して、カヌーに寝転んで何度も繰り返し眺める。繰り返すうちに内容が変わっていき、最後には全く違う内容になってしまう。そうなるともう、最初の記憶は思い出せない。更に放っておくと、形を変えて大きな雲になる。僕はそれを見ると、足元に置いてあったビーチパラソルを広げ、カヌーの上に立てる。七色の派手な配色のやつを。やがて雨が降り始め、水面を激しく叩く。僕はその音をじっと聴きながら、雨が止むのを待つ。次第に音が途切れがちになり、やがて完全に止む。空は鮮やかさを取り戻して、水面は歩けそうなほどに平らで、ぴんと張り詰めている。雲は全て雨に変わり、鍋の中へ溶けていった。

こんな風にして、記憶のスープは出来上がっていく。スープの中身は釣りをしてみなきゃ解らない。けれど最近は、僕が釣り糸を垂らすまでは、ゴム長靴もワカメもそこには存在していない様な気がするのだ。そして底抜けに大きくて果てしなく深いこの鍋こそが、実は宇宙ってやつではないかと僕は密かに踏んでいる。

デモの思い出。

恐らく僕が二十歳になる前辺りだったと思う。3.11の影響で反原発運動が盛んだった。 僕自身も原子力発電所について、熱心に調べていたし、周りも原発の話題で持ちきりだったと思う。 

ある日知人に誘われ、友人数人で反原発デモに参加した事があった。東京メトロ国会議事堂前駅で降り階段を登ると、プラカードを持った人たちが歩いていて、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。流れに沿って少し歩くと長い行列が現れ、僕たちはその中に混ざっていった。何故か韓国の太鼓を叩いている人や拡声器で何かを叫んでいる人。普通の主婦から、驚いたのは子連れの夫婦までいた。僕は未だにデモに子供を連れてくるその感性が理解できない。皆3、3、7拍子で原発反対の声を張り上げ、目が合うと同じ志を持つ仲間だという様な感じで微笑みを送ってきた。国会議事堂周りは妙な一体感と熱気に包まれていて、その光景はどこからどう見たってお祭りにしか見えなかった。 

デモの騒がしい熱狂に体を滑り込ませて、奇妙な一体感に身を委ねているのは、実に心地よかった。まるでそこが日本を守る最後の砦かの様な感覚と、同じ思想と志を持つ仲間に見える人たちに囲まれて、安全な場所から国会議事堂に向かって声を投げつける行為は、確実に僕を酔わせていた。 

けれど同時に、冷めた感覚と妙な嫌悪感も感じていた。僕は一体感を感じるために来たわけでは無かったし、人々は皆とても行儀よく列を作り、礼儀正しく警察の指示に従い、理性的に悲しんでいた。 そう、彼らは悲しんでいた。今にも革命が起こりそうな激しい怒りでもなく、そこに平和への建設的な議論があるわけでもなく、ただ馬鹿でかい建物に向かって悲しみを訴えているだけだった。そして同時に、そんな僕自身を彼らの中に発見した。 彼らは羊の群れだったし、僕はその中の一匹の羊に過ぎなかった。羊が何百何千と集まって、メーメーと鳴いた所で一体何が変わるというのか?精々中にいる議員の眠りを妨げる程度のものだ。いくら集まっても、羊は無力だった。本当に嫌になる。正直、いっそ暴動でも起きた方がまだマシだった。自分の浅ましい奴隷根性を発見しただけだった。 

その後僕は、白けた感覚だけを抱えて国会議事堂前を後にした。帰り道友人の一人が突然怒り出し、警備していた警察官に突っかかった。僕は今ならその気持ちがよく理解できる。彼は悔しかったんだ。あの光景の馬鹿馬鹿しさ。どうしようも出来ない現実が。 

もちろんデモに参加した人の殆どが、その人なりの思想と熱意を持って取り組んでいたんだろうし、僕だってそうだった。けれど、何故か群れると駄目だ、無力な羊になってしまう。少なくとも建設的な物では無かった。 
もちろん僕だけが羊で、他の人たちは狼だった可能性も否定出来ないけれど、あの秩序正しい熱狂はやっぱり不気味だったし、恐らくデモに嫌悪感を感じる人は同じ様な感覚を持っているんではないだろうか?

 それ以降、デモには一度も行っていない。そもそもデモそれ自体が権力と共依存の関係にあるし、でかい運動はそれだけで大金や利権が発生するビジネスとしての側面も持つわけで、仕切ってる側からすれば出来るだけ長く続いた方が得なんだろうと勝手に思ってる。これは勝手な結論なので、詳しい方がいたら是非教えて頂きたいです。 

当時の僕にとっては、緩やかに統制されたデモは怒りが爆発した暴動よりも不気味で怖いものだったし、それは今も変わらない。けれど、気付いたらそういう物に囲まれて取り込まれてしまう事はよくある事だし、ぼうっとしてたら心はパッケージングされて息苦しい思いをする。そういう事を明確に感じ始めたのは、あの頃だったと思う。

散歩、季節について。

散歩が好きだ。
だから今日も歩く。

季節は冬に差し掛かった辺りで、北風に吹かれた桜の葉が、かさかさと音を立てながら小さな螺旋を描き、道路脇に肩を寄せあうように集まっていた。
木々の隙間から差す午後の光は街並みの輪郭をぼやけさせ、冷たく張り詰めた空気のみが、体の輪郭を浮き立たせていた。空は底抜けに青い。


冬のこんな景色がとても好きだ。冷たさが体に沁みて、陽の光が柔らかいくせに妙に眩しくて、子供たちのランドセルの色とかマフラーの色とか、そんな物が妙にくっきり見えて。

反対に、夏はここ数年でようやく好きになれた。昔は、歩いているとどろりとしたゼリーの中をかき分けている様な気分になって、アスファルトの照り返しに苛々して、室内に入れば冷房が効き過ぎていて頭が痛くなった。

好きになったのは、ふと冷静になって見上げた空の大きさだったり(冬の空は広いけど、夏の空はでかいんだ。)夕立の激しさだったり、夏のドラマチックさを理解してからだったと思う。

勿体無い事をしていたなと、少し反省した。

季節は巡るけど、その度に違う出会いを味わい続けたい。
光や音、匂い。木々が芽吹いて、枯れていくまで。賑やかな夏に笑い合って、冬は思い出を肴に酒を飲んだり。
そんな風に、世界と戯れて生きていきたい。

次来る夏へ。

書き出し。ブログを始める。


ふと思い立ってブログを始めてみることにした。
はてなブログを選んだのは、スマホで読みやすかった事、面白かったブログの八割がはてなブログだった事の二つ。

面白いブログを書く人は、何となくコンセプトがはっきりしている気がするけども、恐らくこのブログは特に決まりのない、雑記に近いものになるだろうと思ってる。

継続するかもわからないけど、もしも継続したなら、僕の脳内をそのまま流し込んだ様なとりとめもなく雑多な、けれど俯瞰した時に僕自身が浮き彫りになるような物になれば面白い。
それを誰かが見つけて、笑ったり呆れたり、見向きもせずタブを閉じたりする事も、何だか想像すると面白い。

見知らぬ他人の視点を、こっそりと覗き見るような感覚で読んで頂けたら、深い森の中に、ぽっかりと広がる原っぱを見つけたような気持ちになって頂けたら、幸いです。